4月 14th, 2010
昭和19年6月、サイパンにて海戦、玉砕。
結果的に大敗を喫するのだが、その開戦前の描写を原文のまま以下に記述する。
米軍サイパンに来る、日本の第一機動部隊タウイタウイを出撃、ハルマエラ出撃の大和、洋上にて合流。四十米高所から見える三萬三千米四方に、大艦隊、空母9、艦船艦5、重巡12、駆逐艦27、タンカー4、神戸の川崎重工業で三月出来た、大鳳が旗艦
空母から次は飛行機がとび上り上空で、見事な景色、海上部隊 四百五十機基地航空の五百機以上、見事な戦果が上るであろうと 心わくわく わくわく
―中略―
大鳳沈没 三ヶ月の命 翔鶴沈没 米国のVT信号による砲火で 基地航空隊機動部隊も 「七面鳥落し」と云われる様なやられかた、戦果上らず 玉砕 作戦失敗にて内地へ、機動部隊勇姿なく タンカーの火災の姿を遠くから見る。…続く
とある。
第二次世界大戦において日本がどういう結末を向かえたか、今更言うまでもないが、私が特にショックを受けたのが、この4ヵ月後の10月の記述である。やはり、原文のまま以下に記載する。
昭和十九年十月レイテ沖海戦…(中略)…、六月のサイパンの戦いで勝利の希望はなくなったが、どんな姿で戦が終るか とにかく一生懸命に自分の本分をやる事。
とある。
皆さんはどう思われましたか?
私は、最初に読んだとき、ショックやら感動やら感激とも違うし、何とも言い表しがたい心境になりました。
勝利の希望がなくなった=死 であるはず。にも拘らず、まるで人ごとのように自分の作業と向かい合う。勝てないと分かっている戦に向かう人たち、一体どんな心境だったのだろう。
歴史の証言から学ぶべきこと(7)へ続く・・・
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4月 12th, 2010
今の私たちが口にする「責任感」と、この時代の「責任感」とは、言葉は同じであっても、意味やその重さには雲泥の差がある様に思う。
よく会社の社長が、幹部を振り返り「温度差がある」と言う。確かに、社長の危機感を全社員が温度を同じくして持つことが出来れば、その会社は安泰であるように思う。しかし、それが分かっていながら、全ての企業が永遠に人材育成を叫んでいる。意識の高い社員育成を叫んでいる。
この時代の愛国心に似た、愛社精神を全社員に浸透することが出来れば、自らが必要な勉強に励み、会社に利益をもたらす考え方や行動ができるのだろう。
何故この時代の人たちが持てた個人の意識が、現代においては困難なのか…、ここにも一つの企業経営に必要な、「良い原因作り」のヒントがある様に思う。
ちなみに、この海軍での号令に際し、重要な3項目がある。
一番に迅速、二番に静粛、三番に確実
全員が一糸乱れず忠実にこなしたらしい。
よくミーティングで、「報・連・相」を徹底しよう…皆が耳にしたことがあると思う。たったこれだけを守らせるために、何度も何度も繰り返し言う。なんとも情けなく思ってしまうのは私だけだろうか。
歴史の証言から学ぶべきこと(6)へ続く・・・
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4月 9th, 2010
昭和十七年十月、横須賀海軍砲術学校へ入校。
当時の兵隊の平均視力は「2.0」だったらしい。現代に置き換えれば、驚くべきことである。その中でも特に視力が優れているということで、測約術という職務に抜擢される。その後、旋回手となる。今の私の知識では、測約術とは、どのような作業をするのか、よく分からないが、残された手記では、距離を測ったり見張りをしたり、そのために代数幾何学など、大変難しい勉強をされたようである。
後年の記述では、二万米(2万メートル=20km)先の島の頂上にある5本のやしの木の中で、一番高い木に照準を合わせろ、という命令が下ったりしたらしい…、恐るべき視力、恐るべき不安定な戦略であると感じた。
昭和18年5月呉軍港にて戦艦大和に乗組み、昭和20年4月7日午後2時43分、沈没までの二年間を、戦艦大和乗組員として乗務。
戦艦大和に対する記述がある。手記にあるまま記述する。以下の通りである。
「世界一の戦艦大和、昭和十六年暮に出来た。 ピカピカ満載 七万二000屯 全長二六三米 幅三十九米 主砲四十六cm元門、前艦橋四十米の高さ 測距儀も世界一の十五米の三重の大きいものである。」
上記三行は、手記にある通り引用した。これがどれだけ凄いものなのか、私には想像も出来ないし、いまひとつ、元門であったり前艦橋であったり、知らないことが多すぎて恥ずかしい限りではあるが、とにかく、世界一の戦艦として名高い「大和」が、その時代において、その艦様だけでなく、国民の心においても特別な意味と輝きを持っていたのだろうと想像する。
いずれにしても、この太郎氏は今で言うエリートであることに間違いないと推察する。
その昔、日露戦争において、バルチック艦隊を破り日本を最終的な勝利に導いた、秋山真之。その歴史的事実とこの戦艦大和が、国民においては勝利の歴史が繰り返されるような期待を思わざるを得なかったろう。そういう意味においても、当時から今に伝わる世界一の戦艦大和は、第二次世界大戦で勝利を導く、最重要要因であったはずである。
私は、この太郎氏が手記文中に「難しい勉強を、日々苦しみながら、それでも一切の弱音を吐かずやり通した。」とあるのを見て、やはり秋山真之が留学中に、休みを取らず睡眠時間をも削り勉強に専念していたとき、同輩が、「少しは休めよ」と言ったとき、秋山真之が、「自分が一日遅れれば、日本が一日遅れる。」と言った言葉を思い出した。
歴史の証言から学ぶべきこと(5)へ続く・・・
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