歴史の証言から学ぶべきこと(4)

4月 9th, 2010

昭和十七年十月、横須賀海軍砲術学校へ入校。
当時の兵隊の平均視力は「2.0」だったらしい。現代に置き換えれば、驚くべきことである。その中でも特に視力が優れているということで、測約術という職務に抜擢される。その後、旋回手となる。今の私の知識では、測約術とは、どのような作業をするのか、よく分からないが、残された手記では、距離を測ったり見張りをしたり、そのために代数幾何学など、大変難しい勉強をされたようである。
後年の記述では、二万米(2万メートル=20km)先の島の頂上にある5本のやしの木の中で、一番高い木に照準を合わせろ、という命令が下ったりしたらしい…、恐るべき視力、恐るべき不安定な戦略であると感じた。

昭和18年5月呉軍港にて戦艦大和に乗組み、昭和20年4月7日午後2時43分、沈没までの二年間を、戦艦大和乗組員として乗務。
戦艦大和に対する記述がある。手記にあるまま記述する。以下の通りである。
「世界一の戦艦大和、昭和十六年暮に出来た。 ピカピカ満載 七万二000屯 全長二六三米 幅三十九米 主砲四十六cm元門、前艦橋四十米の高さ 測距儀も世界一の十五米の三重の大きいものである。」
上記三行は、手記にある通り引用した。これがどれだけ凄いものなのか、私には想像も出来ないし、いまひとつ、元門であったり前艦橋であったり、知らないことが多すぎて恥ずかしい限りではあるが、とにかく、世界一の戦艦として名高い「大和」が、その時代において、その艦様だけでなく、国民の心においても特別な意味と輝きを持っていたのだろうと想像する。
いずれにしても、この太郎氏は今で言うエリートであることに間違いないと推察する。
その昔、日露戦争において、バルチック艦隊を破り日本を最終的な勝利に導いた、秋山真之。その歴史的事実とこの戦艦大和が、国民においては勝利の歴史が繰り返されるような期待を思わざるを得なかったろう。そういう意味においても、当時から今に伝わる世界一の戦艦大和は、第二次世界大戦で勝利を導く、最重要要因であったはずである。
私は、この太郎氏が手記文中に「難しい勉強を、日々苦しみながら、それでも一切の弱音を吐かずやり通した。」とあるのを見て、やはり秋山真之が留学中に、休みを取らず睡眠時間をも削り勉強に専念していたとき、同輩が、「少しは休めよ」と言ったとき、秋山真之が、「自分が一日遅れれば、日本が一日遅れる。」と言った言葉を思い出した。

歴史の証言から学ぶべきこと(5)へ続く・・・

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